ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、オランダ語、英語......
ヨーロッパではお隣の国と言語が全く違うということが当たり前のようです。
日本で言えば、隣り合う都道府県で公用語が違う、と言った状態でしょうか。
そんな地域において作られるプロダクトというのは必然的に多言語、
多文化をマーケットとしていくこととなり、
それは様々な背景を持った人々にも直感的に理解出来て、
使うことも出来る様なデザインが生まれ、育って行く土壌ともなり得ます。
例えば、ヨーロッパ車のスイッチ類のアイコンデザインなどはとても典型的で、
見た瞬間、そのスイッチの意味や使い方等が直感的に理解出来る様になっています。
最近では日本車もそうなってはいますが、アメリカやヨーロッパの車においてはもう、
かなり前から、そういったデザインが完成されていた様に思います。
そんなヨーロッパのグローバルでユニバーサルなデザインの潮流は近代に端を発していて、
その時期のヨーロッパではフランス革命を初めとする市民革命が各地で相次いで起こり、
王侯貴族の階級的社会から市民主導の社会が広く構築されていきました。
すると、それまで一部特権階級の人々のモノであった贅沢品や、
様々なモノモノが一般にも広く行き渡る様になっていって、そこで、
沢山の人々に受け入れられるプロダクトやデザインが求められるようにもなっていきました。
そんな時、トドメ!とも言える「産業革命」なるものも起こります。
産業革命によって機械化されたプロダクトメイクは、
それまでの一部特権階級が好んだ華美な虚飾が省かれ、簡素で合理化されたデザインとなり、
無機質化もしていきました。
しかしそんな中、合理的で無機質なプロダクトにもデザインの力によって
様々なアクセントや付加価値を加えよう......という動きが高まり、
やがてシンプルなデザインの中にも「美」や「思想」、
「センス」を込められたモノも生まれて来ました。
そんなデザインにおける流れは、アートシーンにおける「抽象画」や「ポップアート」
などのムーブメントともリンクして、一部のプロダクトを高尚な「芸術作品!?」
とも呼べるような領域にまで高めていったのです。
これが所謂「モダンデザイン」という潮流。
この潮流は「バウハウス」などによってミッドセンチュリーに栄華を極め、
今に至るまで続いているデザインの一大潮流でもあります。
「大衆のための大量生産可能な家具」
と言ったのはドイツの家具職人トーネットさんですが、この言葉も、
モダンデザインの「一部分」を的確に表現していると思います。
現在、その流れは一部「ユニバーサルデザイン=Universal Design」
というものにも引き継がれていて、他にも「ピクトグラム」と呼ばれる
「絵文字」「絵単語」的デザインなどにもその影響が見て取れます。
わかりやすく言えば標識とか、スマホアプリのアイコンデザインなどもそうです。
無駄が省かれた、直感的でシンプルなデザイン。
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「モダンデザイン」「ユニバーサルデザイン」「ピクトグラム」......
アートにおいては「ポップアート」......
それらには、多くの人に瞬時に理解されやすいという利点とともに、当然、
相反的に抱えるリスクもあって。それは何か?と言えば、
上記もしたようにシンプルで合理的、直線的な部分も多いデザインなので、
コピーされやすかったり、無機質で温かみがないものになってしまいがち......
ということでしょうか。
作者の思いや表現したいことなどが限りなく入れ込みづらくもなります。
それは、アートからは遠くなりがちなものにもなりやすい......ということでもあるのしょうか。
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僕が愛してやまないミッフィーさん。またの名は「うさこ」ちゃん。
ミッフィーとは、キャラクターでありながら、実は、
この様なデザインやアートの潮流の中にあるモノだったりもするのです。
ただし!
です。
個人的にはミッフィーは特別だと思っています。
愛してやまない、それなりの理由と凄みを僕は感じていたりするからです。
「ただの」子供向け絵本、キャラクターなどではではない!と思っているのです。
それはきっと、見た人全てが本能的に感じていることではないか......と、
僕には思えているのです。
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まるで一筆書きのようにシンプルな線で描かれているミッフィー。
それはまさにモダンデザインのよう。
しかし、実は、ミッフィーには一つとして「直線」は存在していません。
それは、絵の全てが「手書き」で描かれているからであって、
手書きにしても、物差しや定規などの道具は一切使われていないためです。
もちろんコンピュータも使っていません。
そして、そんな線は、よく見てみると、
手書きであるが故に輪郭がギザギザと、ユラユラと、不規則に波打っています。
人の手というのは何かを書く時にも必ず揺れているからです。
それと、その揺れがシッカリと線に滲み出る様に、
こだわり抜いた筆やサインペンを選び、使い、描かれているからです。
だから、波打っているミッフィーの線の輪郭とは、
描いている人の「手の揺れ」そのものなのです。
印刷ものやコンピューターソフトで描かれる綺麗でまっすぐな線の輪郭とは全く違うものです。
そういう意味でも、ミッフィーには一つとして「直線」は存在していないのです。
シンプルな線を軸に描かれているのに、です。
自然界に直線は「ほぼ」存在しません。
ミッフィーもそうなのです。
合理的で無機質になりがちなモダンデザインの悪いところを、
「手書き」「筆」というシンプルな絵画的魔法でもって、どこか温もりのある、
どこか手触り感のある、そういう絵に仕上げているのです。
心のこもったそんな線を何本も何本も書き直しながら、
その膨大な数の線の中からしっくりくる一本だけを選び、仕上げられているのです。
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想像してみてください。
定規で線を描かれたミッフィーを。
線の輪郭が揺れていない、ピシッ!としたエクセルシートの様な線のミッフィーを。
それはミッフィーではありません。
偽物です。
ライツコントロールの甘かった昔は、時たまそんなニセ・ミッフィーを見かけましたが......
そして、その色使いも、線の描き方と同様にいたってシンプル。
しかし、自由で自在な組み合わせ方。使い方。
色環標における対色、補色、同系色、中間色......
色使いの基本とも言えるような形をしっかりと踏まえながら、
時に驚くような意外な組み合わせや崩し、壊しもあります。
色使いの基本がしっかりと印象付けられるベースがある故に、
その「崩し」は時に驚くような効果を生み出したりもします。
一度だけ、ミッフィーの誕生日のお話の回で、
オシャレして柄物の服を着ているミッフィーが登場します。その衝撃たるや.....
「み、みっふぃーが、、が、ガラモノの服を着てる......」
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あまりに似合わなくて!?なのか?作者もそれ以降二度と描いていないのですが......
僕らマニアはこれを「ガラミッフィー」と呼び、伝説として祀り上げました。。
しかし、そんな衝撃もシンプルな色使いや考え抜かれた構図あってのもの。
それらにおいてミッフィーは教科書的な価値や輝きすらも持っているのです。
それは、本当に完成されていて、一分の隙もない完璧さ。
僕には感動的ですらあります。
だから、僕は、デザインのアイデアに迷った時、悩んだ時は、ジーーーっと、
ミッフィーを見つめるのです。
それは、そこに、多くの答えがあるからです。
ミッフィーは、いつも、僕に必ず何かを気づかせてくれます。
何かを正してくれます。
いいかい。
物事はシンプルでなくちゃいけないよ。
みんなにわかりやすくなければいけないよ。
でもね、そういう方向を突き詰めすぎると無機質で冷たいものになっちゃうんだ。
それもダメだよね。
合理だけだと悲劇も沢山生まれるんだ。
そういう合理化されたシンプルさの中にも必ず温かさを入れないと。
心を入れないと。
魂を入れないと。
ダメだよ。
自然にはならないよ。
完成されないよ。
完全にならないよ。
完全ってね、崩しも含まれてこそ完全なんだ。
ユガミをさ、ユガミと見せない形。
歪みを美と魅せる形。
歪みもあって完成されているということ。
uzmetさん。そーなってる?
あなたの今作ってるものは、ちゃんとそーなってる?
自然、自ら然(しかり)となっていく、そんなふうになってる?
その作品は生きてるのかな?
大丈夫?
頑張ってね!
ミッフィーはオランダで生まれて、
世界中で多くの人々に受け入れられたキャラクターでもあります。
絵本としても一級品。
キャラクター、商品としても一級品。
デザインの観点から見ても一級品。
自己表現をどこまで突き詰められるか?
といった領域にある「アート=美術、芸術」の観点から見ても一級品。
そんなものって、世界にどれだけあるのでしょうか?
ネズミーランドやチビ猫さんなど、キャラクターとして一級品のモノは沢山あると思います。
四次元ポケット猫だって、あのアニメだって、あの漫画だって。。
でも、ミッフィーは立っているステージが違うように思っています。
これを生み出した人は、きっと、そんな次元で生きていた人ではないかと、そう思うのです。
ミッフィーは、いつも僕に、そんな生みの親の話を聞かせてくれるのです。
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つい先日。2月16日。
ミッフィーの生みの親、作者のディック・ブルーナ(Dick Bruna)さんがこの世を去りました。
89歳だったそうです。
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お会いする夢は叶わなかったのですが、
これまでも、これからも、そばにミッフィーがいる限り、彼の絵や本がある限り、
僕は毎日ブルーナさんの教えを受けていくのだと思います。
ブルーナさん。
ミッフィーは傑作中の傑作です。
少なくとも、僕1人だけでも、そう思っています。
宝物をありがとうございます。
心から感謝をしています。
どうか、少しユックリと、お休みください。
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生まれたてのミッフィー。最初はこんな感じだったのですね(^^)
そして......以前も載せましたが、ミッフィーの絵本達の中でもひときわ大好きな1ページ。
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抽象画の巨匠、「ピエト・モンドリアン」の絵の前でたたずむミッフィー。
少しだけ首を傾けて、何か、考えています。
ブルーナさんはピカソやレンブラント、マティスにも強く影響を受けたと語っていましたが、
ミッフィーに関しては、モンドリアンとの並びがとても合うように思えます(^^)
どちらの絵も、抽象化を推し進めたシンプルさの中に魂を込めた作品。
相反する要素を高次なところでまとめ上げている作品。
そんな二つが一緒に描かれている貴重な1ページ。
ミッフィーがアートの魂も持っていることを表している絵のように、僕には思えているのです。
いいね!
ヨーロッパではお隣の国と言語が全く違うということが当たり前のようです。
日本で言えば、隣り合う都道府県で公用語が違う、と言った状態でしょうか。
そんな地域において作られるプロダクトというのは必然的に多言語、
多文化をマーケットとしていくこととなり、
それは様々な背景を持った人々にも直感的に理解出来て、
使うことも出来る様なデザインが生まれ、育って行く土壌ともなり得ます。
例えば、ヨーロッパ車のスイッチ類のアイコンデザインなどはとても典型的で、
見た瞬間、そのスイッチの意味や使い方等が直感的に理解出来る様になっています。
最近では日本車もそうなってはいますが、アメリカやヨーロッパの車においてはもう、
かなり前から、そういったデザインが完成されていた様に思います。
そんなヨーロッパのグローバルでユニバーサルなデザインの潮流は近代に端を発していて、
その時期のヨーロッパではフランス革命を初めとする市民革命が各地で相次いで起こり、
王侯貴族の階級的社会から市民主導の社会が広く構築されていきました。
すると、それまで一部特権階級の人々のモノであった贅沢品や、
様々なモノモノが一般にも広く行き渡る様になっていって、そこで、
沢山の人々に受け入れられるプロダクトやデザインが求められるようにもなっていきました。
そんな時、トドメ!とも言える「産業革命」なるものも起こります。
産業革命によって機械化されたプロダクトメイクは、
それまでの一部特権階級が好んだ華美な虚飾が省かれ、簡素で合理化されたデザインとなり、
無機質化もしていきました。
しかしそんな中、合理的で無機質なプロダクトにもデザインの力によって
様々なアクセントや付加価値を加えよう......という動きが高まり、
やがてシンプルなデザインの中にも「美」や「思想」、
「センス」を込められたモノも生まれて来ました。
そんなデザインにおける流れは、アートシーンにおける「抽象画」や「ポップアート」
などのムーブメントともリンクして、一部のプロダクトを高尚な「芸術作品!?」
とも呼べるような領域にまで高めていったのです。
これが所謂「モダンデザイン」という潮流。
この潮流は「バウハウス」などによってミッドセンチュリーに栄華を極め、
今に至るまで続いているデザインの一大潮流でもあります。
「大衆のための大量生産可能な家具」
と言ったのはドイツの家具職人トーネットさんですが、この言葉も、
モダンデザインの「一部分」を的確に表現していると思います。
現在、その流れは一部「ユニバーサルデザイン=Universal Design」
というものにも引き継がれていて、他にも「ピクトグラム」と呼ばれる
「絵文字」「絵単語」的デザインなどにもその影響が見て取れます。
わかりやすく言えば標識とか、スマホアプリのアイコンデザインなどもそうです。
無駄が省かれた、直感的でシンプルなデザイン。


「モダンデザイン」「ユニバーサルデザイン」「ピクトグラム」......
アートにおいては「ポップアート」......
それらには、多くの人に瞬時に理解されやすいという利点とともに、当然、
相反的に抱えるリスクもあって。それは何か?と言えば、
上記もしたようにシンプルで合理的、直線的な部分も多いデザインなので、
コピーされやすかったり、無機質で温かみがないものになってしまいがち......
ということでしょうか。
作者の思いや表現したいことなどが限りなく入れ込みづらくもなります。
それは、アートからは遠くなりがちなものにもなりやすい......ということでもあるのしょうか。

僕が愛してやまないミッフィーさん。またの名は「うさこ」ちゃん。
ミッフィーとは、キャラクターでありながら、実は、
この様なデザインやアートの潮流の中にあるモノだったりもするのです。
ただし!
です。
個人的にはミッフィーは特別だと思っています。
愛してやまない、それなりの理由と凄みを僕は感じていたりするからです。
「ただの」子供向け絵本、キャラクターなどではではない!と思っているのです。
それはきっと、見た人全てが本能的に感じていることではないか......と、
僕には思えているのです。

まるで一筆書きのようにシンプルな線で描かれているミッフィー。
それはまさにモダンデザインのよう。
しかし、実は、ミッフィーには一つとして「直線」は存在していません。
それは、絵の全てが「手書き」で描かれているからであって、
手書きにしても、物差しや定規などの道具は一切使われていないためです。
もちろんコンピュータも使っていません。
そして、そんな線は、よく見てみると、
手書きであるが故に輪郭がギザギザと、ユラユラと、不規則に波打っています。
人の手というのは何かを書く時にも必ず揺れているからです。
それと、その揺れがシッカリと線に滲み出る様に、
こだわり抜いた筆やサインペンを選び、使い、描かれているからです。
だから、波打っているミッフィーの線の輪郭とは、
描いている人の「手の揺れ」そのものなのです。
印刷ものやコンピューターソフトで描かれる綺麗でまっすぐな線の輪郭とは全く違うものです。
そういう意味でも、ミッフィーには一つとして「直線」は存在していないのです。
シンプルな線を軸に描かれているのに、です。
自然界に直線は「ほぼ」存在しません。
ミッフィーもそうなのです。
合理的で無機質になりがちなモダンデザインの悪いところを、
「手書き」「筆」というシンプルな絵画的魔法でもって、どこか温もりのある、
どこか手触り感のある、そういう絵に仕上げているのです。
心のこもったそんな線を何本も何本も書き直しながら、
その膨大な数の線の中からしっくりくる一本だけを選び、仕上げられているのです。



想像してみてください。
定規で線を描かれたミッフィーを。
線の輪郭が揺れていない、ピシッ!としたエクセルシートの様な線のミッフィーを。
それはミッフィーではありません。
偽物です。
ライツコントロールの甘かった昔は、時たまそんなニセ・ミッフィーを見かけましたが......
そして、その色使いも、線の描き方と同様にいたってシンプル。
しかし、自由で自在な組み合わせ方。使い方。
色環標における対色、補色、同系色、中間色......
色使いの基本とも言えるような形をしっかりと踏まえながら、
時に驚くような意外な組み合わせや崩し、壊しもあります。
色使いの基本がしっかりと印象付けられるベースがある故に、
その「崩し」は時に驚くような効果を生み出したりもします。
一度だけ、ミッフィーの誕生日のお話の回で、
オシャレして柄物の服を着ているミッフィーが登場します。その衝撃たるや.....
「み、みっふぃーが、、が、ガラモノの服を着てる......」

あまりに似合わなくて!?なのか?作者もそれ以降二度と描いていないのですが......
僕らマニアはこれを「ガラミッフィー」と呼び、伝説として祀り上げました。。
しかし、そんな衝撃もシンプルな色使いや考え抜かれた構図あってのもの。
それらにおいてミッフィーは教科書的な価値や輝きすらも持っているのです。
それは、本当に完成されていて、一分の隙もない完璧さ。
僕には感動的ですらあります。
だから、僕は、デザインのアイデアに迷った時、悩んだ時は、ジーーーっと、
ミッフィーを見つめるのです。
それは、そこに、多くの答えがあるからです。
ミッフィーは、いつも、僕に必ず何かを気づかせてくれます。
何かを正してくれます。
いいかい。
物事はシンプルでなくちゃいけないよ。
みんなにわかりやすくなければいけないよ。
でもね、そういう方向を突き詰めすぎると無機質で冷たいものになっちゃうんだ。
それもダメだよね。
合理だけだと悲劇も沢山生まれるんだ。
そういう合理化されたシンプルさの中にも必ず温かさを入れないと。
心を入れないと。
魂を入れないと。
ダメだよ。
自然にはならないよ。
完成されないよ。
完全にならないよ。
完全ってね、崩しも含まれてこそ完全なんだ。
ユガミをさ、ユガミと見せない形。
歪みを美と魅せる形。
歪みもあって完成されているということ。
uzmetさん。そーなってる?
あなたの今作ってるものは、ちゃんとそーなってる?
自然、自ら然(しかり)となっていく、そんなふうになってる?
その作品は生きてるのかな?
大丈夫?
頑張ってね!
ミッフィーはオランダで生まれて、
世界中で多くの人々に受け入れられたキャラクターでもあります。
絵本としても一級品。
キャラクター、商品としても一級品。
デザインの観点から見ても一級品。
自己表現をどこまで突き詰められるか?
といった領域にある「アート=美術、芸術」の観点から見ても一級品。
そんなものって、世界にどれだけあるのでしょうか?
ネズミーランドやチビ猫さんなど、キャラクターとして一級品のモノは沢山あると思います。
四次元ポケット猫だって、あのアニメだって、あの漫画だって。。
でも、ミッフィーは立っているステージが違うように思っています。
これを生み出した人は、きっと、そんな次元で生きていた人ではないかと、そう思うのです。
ミッフィーは、いつも僕に、そんな生みの親の話を聞かせてくれるのです。

つい先日。2月16日。
ミッフィーの生みの親、作者のディック・ブルーナ(Dick Bruna)さんがこの世を去りました。
89歳だったそうです。

お会いする夢は叶わなかったのですが、
これまでも、これからも、そばにミッフィーがいる限り、彼の絵や本がある限り、
僕は毎日ブルーナさんの教えを受けていくのだと思います。
ブルーナさん。
ミッフィーは傑作中の傑作です。
少なくとも、僕1人だけでも、そう思っています。
宝物をありがとうございます。
心から感謝をしています。
どうか、少しユックリと、お休みください。

生まれたてのミッフィー。最初はこんな感じだったのですね(^^)
そして......以前も載せましたが、ミッフィーの絵本達の中でもひときわ大好きな1ページ。

抽象画の巨匠、「ピエト・モンドリアン」の絵の前でたたずむミッフィー。
少しだけ首を傾けて、何か、考えています。
ブルーナさんはピカソやレンブラント、マティスにも強く影響を受けたと語っていましたが、
ミッフィーに関しては、モンドリアンとの並びがとても合うように思えます(^^)
どちらの絵も、抽象化を推し進めたシンプルさの中に魂を込めた作品。
相反する要素を高次なところでまとめ上げている作品。
そんな二つが一緒に描かれている貴重な1ページ。
ミッフィーがアートの魂も持っていることを表している絵のように、僕には思えているのです。
いいね!
